上下天領ツーリズム

お知らせ

【匠の学校 ~石見銀山と上下町~】開催しました

今年最後の【匠の学校】を開催しました。

【匠の学校】は、3年前から始めた取組みで、町に残る歴史的建造物をはじめ、日本庭園や骨董など、その道の匠に学び、技・智慧を習得し後世に繋いでいくための学びの場です。

今回のテーマは『石見銀山と上下町の関わり』。上下町で発見された「丁銀」から、石見銀山との関わりを紐解こうと、石見銀山資料館 中野義文館長を講師にお招きしお話を伺いました。

こちらが上下の商家で見つかった「丁銀」。日本国内において主に商取引用として室町時代後期から明治維新まで流通した銀貨のこと。銀は形が一定ではないため、一定の重さの銀を紙に包み、その価値を紙に書いて貨幣価値を持たせていたそうです。

石見銀山で銀の生産が盛んになったのは16世紀以降。西洋諸国がアジア大陸に入り、世界中で銀が必要となったことから銀が国際通貨となったそうです。当然、金もありましたが生産量が少ないため国際通貨にはなり得なかったという背景があるのだそう。

当時、銀は一般庶民が使えるものではなく(庶民は銭を使用)、商人が取引に使っていたことから、上下町の民家で丁銀が発見されたのは「陣屋があった場所であること」、「金融業で栄えていた歴史を持つこと」からも十分に納得ができるとのお話でした。

上下代官は享保2年に廃止され、石見銀山大森代官所(島根県大田市)の出張陣屋に改められました。その関係で、大森陣屋の公金貸付の上下代官所陣屋を経由して有力商人に委託運用し「上下銀」と呼ばれる金融商品を扱っていたのではないか、とのこと。金融業で財を成した上下町ですが、 この小さな町には33軒も金融業者があったそうで、 幕府や明治政府にも金を貸していたという文書も残っています。

中野館長から「上下の特徴は、山陽・山陰の交通の要衝地として「宿場町」で栄えていたところに代官所が置かれ、金融業が栄えていった。という歴史的な順番だ」と伺い、どのようにして上下の商人たちが金融業に携わり発展していったのか、周辺地域の産業なども見ながら研究していくと、新たな上下町の歴史DNAを発見できそうだとワクワクしてます。また更に追及してきたいテーマです!

ちなみに「上下代官所」は、明治元年まで出張陣屋として使われていた後は市役所支所として利用されましたが、現在は石垣のみを見ることができます。昭和16年(1941)に「天領上下代官所跡」として広島県の指定文化財となり、平成19年(2007)に市役所支所が別の場所に移転した際には遺構の残存状況を確認するための発掘調査が行われました。

天領上下代官所跡>>https://jogetenryo.com/meguru/sight/436/

石見銀山資料館>>https://igmuseum.jp/

2020.12.21

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